【二〇一五年 杏】
「どうして……兄さん」
その瞬間、私の呼吸は止まった。
空耳だよね。何度も心の中で繰り返す。
でも、確かに聞こえた。
修司は目の前の男に向かって、"兄さん"と呼んだのだ。「お、にいさん?」
声が、かすれ震えた。
修司は照れくさそうに頭を掻きながら、その男を紹介する。
「この人は、僕の兄さんで――月ヶ瀬雅也(まさや)。○○大学に通ってて、すごい人なんだ」
どこか誇らしげに言う修司の顔を、私は呆然と見つめていた。
ゆっくりと雅也へ視線を移す。
雅也は、じろりと私を下から上へと舐め回すように見つめた。「へぇ、可愛いじゃん。お前やるなあ。なんで言わないんだよ」
からかうように修司の肩を肘で軽く突きながら、にやにやと笑う。
「べ、別に、わざわざ言う必要ないだろ」
照れながら答える修司。
その隣で朗らかに笑う雅也は、そんなに悪い人に見えなかった。「たまたま通りかかったら、修司が見えてさ。
何してんのかなーって思ってたら、こんな可愛い子と会ってるじゃん。気になっちゃってさ」雅也は軽い調子で続ける。
「でも、良かったな。お前に彼女ができるなんて思ってなかったよ。
奥手だから心配してたんだ」そう言うと、雅也は修司の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に乱す。
修司はそれを嫌がることもなく、くしゃっとした笑顔を浮かべた。微笑ましい光景のはずなのに……私は笑えなかった。
全身の血の気が引いていき、目の前が霞んでいく。
「じゃ、俺、行くわ」
「うん、また」
手を振り、雅也はその場を後にする。
その背中が遠ざかっていくのを、私はただ茫然と見送っていた。ふいに、修司が私を見て驚いたように声を上げる。
「どうしたの!? 大丈夫?」
私の肩に手を置き、心配そうに覗き込んでくる修司。
き
【二〇一六年 杏】 修司の父親と話してから、私は修司に会うことができずにいた。 スマホの通知は、数えきれないくらい溜まっている。 その通知に並ぶ名前を見るたび、胸がぎゅっと締めつけられて、私は深い悲しみに落ちていった。 修司は、何度も家に訪ねてきた。 でも、私はそのたびに居留守を使い、新にも「いないって言って」と頼んだ。 何度目かもわからないお願いに、新はいつも不思議そうな顔をしていたけれど、何も言わずに私の言うことを聞いてくれた。 学校へは行っていなかったから、プライベートでさえ会おうとしなければ、修司に会わずに済んだ。 私は外出もほとんどしなくなり、家に閉じこもる日々が続いていった。 その間も、裁判は進んでいく。 あれよあれよという間に判決は下り、父は冤罪の汚名を着せられたまま、無期懲役が決まってしまった。 事件の真相を知りながら、何もできない自分を、私は責め続けた。 苦しくて、心が壊れそうだった。 本当は誰かに助けてって叫びたかった。 普通なら、とっくに壊れていたかもしれない。 でも、そんな余裕はない。 私には守るべきものがある。 ――新を守る。 それが私の使命だと思っていた。 父が守ろうとしたものを、今度は私が守るんだと。 自分を犠牲にしてでも、父が守ろうとしたもの。 それは、私たち。 父が命がけで守り抜いたものを、今度は私が守り抜く。 その決意だけが、私を支えていた。 でも、本当は胸が張り裂けそうだった。 どんなに心に言い聞かせても、抑えきれない感情。 修司への想い―― 会いたくてたまらなかった。 今すぐ抱きしめてほしいと、何度思ったかわからない。 ……だけど、そんなことは許されない。 許されないのだ、絶対に。 修司のことを思えば、すぐに父の顔が浮かぶ。 そして、私の中のもう一人
【二〇二五年 新】 修司さんに促され、僕は休憩室へと向かった。 自販機で缶コーヒーを二本買い、そのうちの一本を無言で差し出してくる。「ほら」 反射的にそれを受け取り、そのまま近くの椅子に腰を下ろす。「ありがとうございます」 缶コーヒーを見つめたまま動かずにいると、隣に修司さんが腰掛けてきた。「驚いたよ。杏から聞いたんだ、おまえが警察官になったって。 ちょっと調べてみたら、生活安全課の若きエースだって噂じゃないか。すごいよな」 昔と変わらない、優しく屈託のない笑顔。 変わってないな、と頭のどこかで思いながらも、胸の奥には冷たい波紋が広がっていく。 喉が渇いているのに、缶コーヒーを開ける気にもなれない。 少し間を置いてから、無理やり口を開いた。「……ありがとうございます。 でも、あなたほどじゃありませんよ」 努めて平静を装う。 それでも、自分でもわかるくらい、ぎこちない口調になっていた。 ポーカーフェイスなら、得意なはずなのに。 この人を前にすると、うまく機能しない。 心を乱されるのは、姉さんだけじゃない。 僕も同じだ。「はは、俺なんてただの七光りだよ」 気取らず笑う修司さんは、続ける。「でも、おまえは違う。自分の力でここまで来たんだ。 誇りに思えよ」 それは、姉さんがいつも言ってくれる言葉だった。 同じ言葉なのに、違う感情が胸に刺さる。 姉さんに言われると嬉しいのに、この人に言われると、なぜかムカつく。 その気持ちを隠すために、僕は缶コーヒーを一気に飲み干した。「いろいろ、大変だったな……おまえも、杏も」 缶を机に置いた修司さんが、ふいに真面目な顔をする。「ずっと心配してた。連絡もできなかったし、消息もわからなくて……」 その言葉の裏に、何があるのか。 問いかけのような視線を受け止め
【二〇二五年 新】「おい、佐原! 佐原っ」「あ、は、はい!」 まただ。 今日、いったい何度目になるのか、わからない。 上司の声が、静かなオフィスに刺さるように響いた。「おまえ、最近どうしたんだ? たるんでるぞ」 叱る声は厳しいけれど、それだけじゃない。 その奥に、僕への気遣いを感じる。「おまえには期待している者も多いんだ。俺だって期待している一人だ」 ぽん、と肩を叩かれる。 その手は、思いのほか温かかった。 生活安全課の課長である彼は、僕がここに配属されて以来、ずっと目をかけてくれている人だ。 警察官になって三年。 気づけば、自分でも驚くくらいに仕事をこなせるようになっていて、周囲からは「期待のルーキー」だとか「エース」だとか言われるようになっていた。 僕自身は、ただひたすら目の前のことに全力で取り組んできただけだ。 でも、姉さんがいつも喜んでくれた。 「新はすごいね」「誇りだよ」って、あの笑顔で言ってくれるから。 それが嬉しくて、もっと頑張ろうと思えた。 それだけで、十分だった。 だから、周りが何と言おうがどうでもいい。 ……姉さんのためなら、僕はどこまでもやれる。 ――姉さん。 佐原杏。 僕の、たった一人の家族。 母さんを早くに亡くし、父さんがあんなことになって。 ずっと、二人きりで生きてきた。 どんなに苦しくても、悲しくても、支え合いながら。 あの頃は、ただそれだけでよかった。 やっと穏やかで、静かな毎日を手に入れたと思ってたんだ。 なのに……。 また、あいつが現れた。 月ヶ瀬修司。 姉さんの心を、かき乱す。 僕は、姉さんをあいつから解放したかった。 でも、わかったんだ。 姉さんは、あの時のまま、ずっと
【二〇一五年 修司】 あれは、十月だった。 少し肌寒く感じる日が増えてきた、そんな頃。 杏のおじさんが、殺人の容疑で捕まった。 信じられなかったよ。 あの穏やかで優しいおじさんが? そんなわけない、絶対何かの間違いだって思った。 それからしばらくは、なかなか会えなくなった。 杏はおじさんのことで手一杯で、連絡だって、取れなくなっていった。 俺は、そばで支えたかった。 でも、今の俺では何の力にもなれないかもって思うと、一歩が踏み出せなかった。 それに、今はきっと誰にも会いたくないだろうって思ったし。 それでも、一度だけ勇気を出して声をかけたことがある。 ……見事、玉砕したけど。 杏のことが心配で、たまらなかった。 声をかけずにはいられなかった。 でも、君は俺に背を向け、走り去った。 ああ、やっぱり、俺は君の力になれないのかって、また落ちこんだ。 それでも、やっぱり、諦めきれなくて。 だから、必死に連絡を取ろうとした。 何度もメッセージを送って、ようやく杏から返事があった時―― 本当に、飛び跳ねるくらい嬉しかったんだ。 ……杏、知らないだろ? 俺、本気でガッツポーズしてたんだぜ。 あれは、十二月だったかな。 雪が降りそうなほど寒い中、俺は君に電話をかけるのを悩んで。 すっかり冷えてしまい、手は氷のように冷たくなった。 君がやってきて。 俺の手をぎゅっと握ってくれてさ。 すごく、あったかかったな。 そのあと、カフェでキスしてくれたよな。 ……あのキスも、俺は一生忘れない。 でも――その幸せも、長くは続かなかった。 あれから間もなく、君は俺の前から、消えてしまった。 確か……俺の家に遊びに来て、父と兄に紹介した日。 あの日、君
【二〇二五年 修司】 杏が走り去ったあとも、俺はただ立ち尽くしていた。 夏独特の、生暖かい風がまとわりついてくる。 じっとりと全身に汗がにじみ、シャツが肌に張りつく感覚がやけに不快だった。 俺は苛立ちから、額の汗を乱暴に拭った。「……なんだよ」 ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。 大きく息を吐きながら、さっき杏が消えていったドアを見つめる。 杏のあの態度……わからない。 十年前。 急に、杏は俺を避けるようになった。 あれは……たしか、寒い日だったと思う。 親父さんの事件で、杏は疲れ切っていて。 だから、俺が傍にいて、支えたいって思ったんだ。 そうして、ずっと一緒に生きていくんだって。 信じてたのに。「なんで、こんな風になったんだ……」 空を仰ぎ、杏のことを思った。 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、愛しさが溢れてくる。 愛しくて、狂おしい。 俺の中で、ずっと根を張り、深く……。 十年経った今も、それは変わらず。 出会った、あの時から――一度だって、忘れたことなんてなかった。 【二〇一五年 修司】 あれは、俺がこの街に引っ越してきたばかりの頃だった。 転校初日。 校門の前で、ふと立ち止まった。 大きな木が、空を覆うように枝を広げていて、 何となく気になった俺は、それを見上げていた。 これから、ここで過ごすんだな。 ぼんやりとそう思っていた、その時。 誰かに見られている気配がして、顔を向ける。 そこに、君がいた。 杏が、ほんの少し離れた場所に立っていた。 大きな瞳で、じっと俺を見つめていて。 その視線に、息が詰まった。 可愛い。 そう思った。 今思えば、あれは間違いなく
【二〇二五年 杏】 私は俯き、静かにつぶやいた。「お父さんは……死んだ」「……えっ」 しばらく絶句していた修司が、ようやく声を震わせながら問いかけてくる。「な、なんで?」「心筋梗塞。私が十八のとき」「……そう、だったんだ……」 修司は、何も知らない。 きっと父の死も、今初めて知ったのだろう。 ショックを受けているのが、顔にありありと浮かんでいた。 彼が父の死を知れば、傷つく。 優しい人だから。 そんなこと、わかってた。 そして、真実はもっと残酷で……。 これは絶対に知られてはいけない。 修司のためにも、知らないほうが幸せなのだ。 ああ、何で私は修司と話してしまったのだろう。 なんで、言っちゃったんだろう。 修司があまりに、昔のままで。 つい、気が緩んでしまった。 言うつもり、なかったのに。 やっぱり、修司と話すべきじゃなかった。 苦しい、胸が張り裂けそう。 辛い過去の記憶が、私の心を覆いつくそうとする。「ごめん、私、もう行く」 修司といることに耐えられなくなった私は、立ち上がった。「待って!」 去ろうとした瞬間、修司が咄嗟に私の手を掴んだ。 握られた手が――熱い。 私たちは見つめ合ったまま。 時が止まったかのように、動けなかった。 彼の切なげな瞳から、目が離せない。 修司……本当は、私。 はっとして、思考を現実へと引き戻す。 私はいったい、何を考えて! 目をぎゅっと閉じ、思考を振り払うため頭を強く振った。 そして、修司の手を乱暴に振りほどく。「はな、して!」 その勢いのまま、駆け出そうとした。 だけど、修司の悲痛な声が、私の足を止めた。「杏!! どうし